ユニヲンジャック

外出た/瞬間/やっていくしかない

『ルックバック』と人生の分岐点について (#562)

テキスト

知ってるよ、今『ルックバック』について書くのは粋か粋じゃないかで言ったら間違いなく粋じゃない。

沈黙は金。

銀メダルを狙おうと思います。やっていくしかない。

印象に残ったところを以下ネタバレあり。

大きな転換点

京本が死んでしまうという悲劇を起点に大きな転換が生まれていて、

「あの日藤野が京本と出会わなかったら」というifが描かれる。

結果から言うとそれでも京本は美大に進んで例の襲撃を受けてしまうのだけれど、藤野は空手家になっていて偶然京本の命を救うことができる。

けれど、その顛末をもとに京本が作った4コマ漫画では、斧が刺さった藤野の「背中」がオチとして描かれている……

これはいろいろ解釈できるけれど、

藤野が代わりに負った傷が軽くないことを表しているのかもしれないし、

この世界線では当然「藤野キョウ」も「シャークキック」も生まれておらず、その代償の大きさを表しているのかもしれない。

それは明らかにA世界線の2人にとっては人生そのものだったはずだから。

ifの世界で京本が何を見たのかはわからないけれど、何かを選択するということは何かを犠牲にするということと同じ、というややホコリを被った表現が頭に浮かぶ。

人生の分岐点

京本の死に限らず、この作品では人生の分岐点となるシーンが多く出てくる。

絵を書くことを諌められた時点、一度漫画から離れた時点、美大に進む京本と別々の道を選ぶ時点、また「シャークキック」を描き出す時点……

過去の分岐点の果てに現在地があるわけで、漫画を止めなかったから「藤野キョウ」がある、けれど京本は死んでしまった、藤野には空手家になる道だってあった。

その分岐点を現在から「振り返る」ことが出来たとして、それでもやっぱり同じ道を選んで同じ今にたどり着いてしまうのかもなあ、ということを強く感じた。

タツキ先生の情景描写が上手すぎるのもあるけれど、この人生を否定することは出来んよ。それは。

蛇足

僕もこうして未だにネットに文章を書いたりwebに関っていたりだけれど、それって中学生の僕が仮にスマホを持っていたら起こりえなかった人生だろうなということをぼんやり考えた。

当時家にあるパソコンは親父の1台だけで、自分の携帯もまだ持っていなかった。

そんな環境だったからこそ、PSPのブラウザからgooメールを開いて友達と会話できた嬉しさは忘れられないし、

ベッドの中からリアルタイムで聴くlivedoorねとらじはどんな番組よりワクワクした。

例えばその瞬間を「振り返って」、夜更し癖がなければもっと良い人生を送れるよと言われてもやっぱり僕はまたニコニコ実況サマーフェスを明け方まで聴くんだろうな。

まあそんな僕の「背中」は今のところ別に誰も見てないんすけど。

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