ジオシティーズの消滅に思う (#508)
友人が昔作っていたサイトを久しぶりに覗こうとしたのだけれど、それは3月に消滅していた。
ヤフージオシティーズを使っていたからだ。
僕は2000年代のテキストサイトやジオシティーズの世代よりは若いから、終了のニュースが広まったときも印象に残るものは持ち合わせていなかった。
けれど半年経って余波を受けて思ったけれど、これは中々に悲しいことだ。
意味のあるサイトは既に少なかったとはいえ、大袈裟に言えば無数の文化が消えてなくなったのだ。
インターネットは、データで構築されているから保存が効く。そしてデータで構築されているから脆い。消えてしまえばそこに何かがあった痕跡すら残らない。
「枕草子の内容に意味があるか」と問われれば、
あんなもん平安時代のアメブロだろって思うのだけれど、(マジで嫌いです)
それを1000年後の僕が読んで評価できるってことに大きな意味がある。
平成のアメブロを1000年後の子孫が読む可能性は分からないけれど、少なくともジオシティーズを読むことは出来なくなった。バトンは廃棄されたのだ。
ネットの情報が無限に残るなんてクリシェは実はかなり限定的なのだなと。例えば2010年の記事やコンテンツなんて殆ど公開終了しているわけで。
ネットの資産は保有/非保有が曖昧だし、身の回りの資産が2030年になったときに使えない、みたいなことは怖いなあと改めて感じた。
このサイトはなくなって構いません。
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